平ヶ岳を良く知るためのキーワー
(平ヶ岳関連資料編)
湯之谷村
湯之谷村データ
湯之谷村年中行事
湯之谷村名産・名物
湯之谷村連絡先
阿賀野川
利根川
只見川
奥只見ダム
銀山平
花崗岩 
斑状花崗岩
石英閃緑岩 
チングルマ
オウレン
オノエラン 
ホソミモリトンボ
深田久弥
高頭仁兵衛
越後三山只見国定公園
日光国立公園

湯之谷村(新潟県北魚沼郡)
新潟県の南東端に位置する山村。東は福島県、南は群馬県とそれぞれ境を接している。1889年4月の市町村制実施の時、湯之谷村となり、1901年に八箇村を編入して今日にいたる。村は周囲を標高2,000m級の奥只見山系の山々に囲まれ、山林原野が広い面積を占めている。中北部にそびえる小倉山(1378m)の北西腹に源を発する佐梨川が北西へ流出し、この本支流沿いにわずかに平坦地がひらけて、集落が散在する。また東部の県境沿いには、南東端の尾瀬ヶ原から流れ出て奥只見湖をつくり北の福島県只見町へと流下する只見川がある。米・野菜作りと畜産、山仕事を生業とするが、湯中居から奥只見ダムまで延長22キロ余り(うちトンネルが18キロ)の観光道路である“奥只見シルバーライン”が通じ葎沢(むぐらさわ)・折立・大湯・栃尾又など、湯之谷温泉郷と総称される温泉もある。その良質な温泉客を主体にした行楽客の訪れが多く、その観光収入が村の経済に大きな比重をしめている。尾瀬ヶ原の北側登山口にもなっている。
「郷土資料辞典 15 新潟県 1997年 人文社 」

湯之谷村 面積387.75Km2
面積では広大な村であるが、大部分は山地である。住居地区のほとんどは、南魚沼郡大和町境の駒ヶ岳(2,000.7m)北麓に源を発する。佐梨川と平行して地下の温泉脈があるらしく、上流から駒ノ湯、栃尾又温泉・大湯温泉・折立温泉などが川沿いに湧出しており、湯之谷温泉郷を形成する。川は下流地域で耕地用水として使用されている。銀山平らの大半は、1957年に奥只見電源開発工事の結果できた奥只見湖底に水没した。しかし、かつて銀山平と小出島(現在の小出町)を結んだ銀山街道と(現国道352号)が電源開発専用道路と連結されて、村は温泉と湖を中心とする観光地・保養地としての色彩を濃くした。湖には定期船が運行し、近年は群馬県境の平ヶ岳までの登山路も開かれた。1889年(明治22年)町村制施行により、八箇村、湯ノ谷村の2ヶ村が成立、1901年この2ヶ村が合併して湯之谷村となって現在にいたる。
「新潟の地名 日本歴史地名大系15 1986年 平凡社 395ページ」

湯之谷村(世界大百科辞典 第2版 CD-ROM版 1998年 日立デジタル平凡社)
新潟県南東部、北魚沼郡の村。人口6605(1995)。魚野川の支流佐梨川の谷と東部の只見川上流域を占め、福島・群馬両県との県境にある。1641年(寛永18)上田銀山が発見され、高田藩により開発が進められた結果、元禄年間(1688-1704)には戸数1000戸の鉱山町が出現し盛況をきわめた。これに伴って、佐梨川の谷の各集落が銀山街道の宿として栄えたが、江戸末期の閉山とともに衰えた。温泉の歴史も古く、奈良時代以来といわれ、大湯、栃尾又などの温泉群があって湯之谷温泉郷として知られる。1953年から奥只見電源事業開発事業が始まり、只見川上流に奥只見ダム、奥只見湖(銀山湖)ができて、観光地としても注目されるようになった。大湯からは、資材運搬用道路を転用した奥只見シルバーラインが通じ、大湯温泉は奥只見、尾瀬ヶ原、越後三山への観光拠点ともなっている。73年越後三山国定公園の指定を受けた。これらの観光資源をいかしたリゾート開発が行われている。豊富な山菜を利用した食品加工工場も多い。(佐藤祐治)445文字

10年前の紙の世界大百科辞典(平凡社)1988年では人口の6420(1980)の数が違うだけで文章、執筆者も全く同じ。当然なことながら、エンカルタ98には「湯之谷村」の言葉を含んでいる項目すらなかった。比較のために競合する小学館の紙の日本大百科全集第2版1995年版と比較すると内容が驚くほど似ているが、どうしてこうなるのだろうか。もっと個性的な記述があってもいいと思われるが、客観的な記述で情報をならべるとだれがやってもこうなるのだろうか。日本大百科全集の記述は以下のとうり。また大手出版社でない地元新潟日報事業社の「新潟大百科事典」デスク版1997年の復刻版(1984)ではどうなるか。続けて掲載しておきます。

湯之谷村(日本大百科全集 第2版 1995年 小学館)
新潟県南東部、北魚沼郡にある観光の村。銀山山地と佐梨川の谷を占める広大な山村。1692年(元禄5)高田藩の上田銀山は開発され、鉱山町が繁栄し、小出まで銀山八宿が定められ、大湯、栃尾又はその温泉宿場町で栄えたが、銀山平は近代になって銀山衰退後、出作り村に変わった。1953年(昭和28年)から奥只見電源開発事業が始まり、銀山湖、奥只見ダムができ、電源開発トンネル輸送路もシルバーラインとよぶ観光道になり、一大観光地に変わった。越後三山只見国定公園に属し、大湯、栃尾又のほか折立・駒ノ湯温泉があり、スキー場、キャンプ場にも恵まれ、多くの観光客を集めている。人口6495。 (山崎久雄)
参考図書:星野徳市郎編「薮神庄湯之谷郷」(1970・湯之谷村)321文字

湯之谷村 (新潟大百科事典 デスク版 1997年の復刻版(1984)新潟日報事業)
北魚沼郡の東南端の会津境の山村。人口6,070人で希薄であるが、面積348.74平方キロは全国屈指の大村でその大部分は福島・群馬との県境山地で、全国一の豪雪地として有名。江戸時代の初め県境の只見川で銀山が開発され明暦〜元禄期にかけて川村端賢が幕命を奉じて直山支配に任じ、輝かしい業績をあげ鉱山ブームを形成した。ここは今も銀山平と呼ばれる。1953年(昭和28年)奥只見発電所の建設が開始され、1962年完工、36万キロワットの発電をしている。東洋一の大人工湖は銀山湖と呼ばれシルバーラインの開通で観光地になっている。数百年の歴史を持つ大湯・栃尾又温泉と最近開発した折立温泉を併せて文字通り湯之谷の名に背かぬ温泉郷をなす。村の発展の跡をたどるとき、必ず銀山と温泉が登場する。1973年越後三山・奥只見国定公園が指定され、銀山湖の周りには樹海国道とよばれる国道352号線も開発が始まり、ヤマメ釣り、尾瀬の玄関口・国民キャンプ村など広域観光開発につとめている。(参考)星野徳市郎「湯之谷郷」(1970) (羽賀芳夫)455文字

 

湯之谷村の歴史

湯之谷村データ

村制施行:

1889年(明治22年)4月1日

面積:

350.08平方キロ

人口:

6,560人(男3,242人、女3,318人)

人口密度

8.8人/km2

世帯数: 

1,902

(一世帯当たり 3.4人/世帯)

当初予算:

一般会計

53億8,800万円

特別会計

16億150万円

村職員:

121人

議員定数:

18人

学校:

幼稚園はなし

小学校3校(25学級、458人)

中学校1校(9学級、260人

村長:

佐藤孝幸 63才(1994年8月30日 選挙2選)

湯之谷村役場住所

〒946-8511 新潟県北魚沼郡湯之谷村大字大沢213番地1

電話:

02579-2-1122(代表)

Fax:

02579-2-7600

ホームページ

http://www.uonumanet.co.jp/okutadami/

年中行事:

2月下旬

雪国ゆのたにかまくら村

3月上旬

湯の里雪祭り(百八灯祭)
薬師スキーカーニバル

3月中旬 

大湯温泉スキー大会

4月中旬

奥只見丸山大回競技大会

6月上旬

山と湖と温泉まつり

6月最終日曜日

山開き(駒ヶ岳・荒沢岳)

7月第一土・日

山開き(平ヶ岳)

7月最終金曜日

尾瀬三郎供養祭

7月最終土日

ふれあい夏の雪まつり

8月17日〜18日

大湯温泉夏まつり

奥只見郷のお祭り情報

名産・名物:→特産品

魚沼コシヒカリ、山菜加工品、自然薯、手打ちそば、漬け物、木工民芸品、手すき和紙

連絡先:

湯之谷村、観光課:

02579-2-1122

奥只見郷インフォメーションセンター:

02579-2-7300

奥只見電力館:

02579-5-2059

湯之谷村物産館「深雪の里」:

02579-2-9300

心亭:

02579-3-1000

奥只見丸山スキー場:

02579-5-2750

栃尾又温泉クアハウス:

02579-5-2216

湯之谷村交流センター「ユピオ」:

02579-5-2003

ホテルゆのたに荘:

02579-5-2206

薬師温泉センター「ゆ〜パーク薬師」:

02579-2-5554

以上「新潟県年鑑 1998版 新潟日報社」から

 

CD-ROM百科事典を考える
以下に一部、同じ項目をCD-ROM百科事典である日立デジタル平凡社のマイペディア97マイクロソフトのEncarta 98 Encyclopediaから調べて比較のため並べてみました。文章量の違いから要約のしかた、書いている観点の違いなど面白い点が発見できると思います。大項目で詳しい内容か小項目で簡単な記述のどちらが良いかは好みの問題ですが、これらの購入を考えている人には参考になるかもしれません。

マイペディア97マイクロソフトのEncarta 98 EncyclopediaなどのCD-ROM百科事典を比較した記事が「百科辞典ソフトは実用になるか 」ページにあります。これはNECのBIGLOBE SoftPlazaに格納されています。

今回使いませんでしたが、
マイペディア97を発売している日立デジタル平凡社から出ているCD-ROM平凡社世界大百科事典プロフェッショナル版については楠哲士氏の「CD-ROM平凡社世界大百科事典を購入した読者による、読者・購入予定者のためのページ」で使用上の問題点や活用事例など興味い情報が詳しく紹介されています。さらに情報交換のための掲示板も用意されています。

阿賀野川:「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社から」
福島県西部から新潟県北部を流れる川。長さ210km,流域面積7710km2。会津盆地周辺の水を集め,山都(やまと)付近で只見川を合わせ,越後山脈に横谷を刻み,数段の段丘をつくって先行性流路を示す。五泉(ごせん)から広い沖積平野を形成する。中世には阿賀川とみえ,江戸時代には新潟湊と会津藩領を結ぶ舟運が発達した。包蔵水力が大きく,只見川はじめ電源開発が活発。1964年―1965年下流部で有機水銀中毒事件が発生した(水俣(みなまた)病)。

阿賀野川:Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から
あがのがわ 福島県西部から新潟県北部を西流する川。福島県内では阿賀川とよばれ、最上流部から会津盆地までは大川ともよばれる1級河川。全長210km、流域面積7710km2

地形と流路
福島県と栃木県の県境にある荒海山(1581m)の北麓(ほくろく)に源を発し、会津若松市の北方で猪苗代(いなわしろ)湖を水源とする日橋川と合流する。会津盆地から流出する部分には河跡湖がみられる。喜多方市の西方で尾瀬沼を水源とする只見(ただみ)川と合流する。新潟県にはいると越後山脈を水源とする支流をあわせ、新津市付近で早出川と合流する。越後山脈の山塊を横断する区間は、深い峡谷を蛇行しながらながれる。本来の阿賀野川は河口付近で海岸砂丘にはばまれて西流し、信濃川に合流していたが、1730年(享保15)松ケ崎分水路が開削され、独立した水系となって新潟市の東方で日本海にそそいでいる。新津市の北方で小阿賀野川(旧阿賀野川)が分流し、信濃川に合流する。

開発と産業
流域の会津盆地と越後平野は稲作地帯である。とくに越後平野は、阿賀野川の河口部から灌漑(かんがい)用水がとりいれられ、全国有数の米どころとなっている。支流の只見川流域は豪雪地帯であり、豊富な水量は田子倉ダム・奥只見ダムをはじめとする水力発電に利用されている。流路にそってJR磐越西線と国道49号がはしる。江戸時代には信濃川河口と津川との間で舟運がおこなわれ、会津盆地の米や会津藩内に流通する塩や干物などが輸送された。1964年(昭和39)、新潟県鹿瀬町の昭和電工からの排水にふくまれた有機水銀が原因で阿賀野川有機水銀中毒事件が発生し、第二水俣病(新潟水俣病)(→ 水俣病)として社会問題となった。

利根川:「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社から」
群馬県北端の丹後山付近に源を発し,関東平野をほぼ北西〜南東に貫流して銚子で太平洋に注ぐ川。古来〈坂東太郎〉と呼ばれた大河川で,長さ322km,本支流延長6745km。流域は群馬,栃木,埼玉,千葉,茨城,東京の1都5県にわたり,面積1万6840km2で日本最大。上流は峡谷をなして南流,赤谷川,片品川,吾妻(あがつま)川を合して関東平野に出,中流部で鏑(かぶら)川,烏川,神流(かんな)川を合わせる。羽生で中川を分流,栗橋で渡良瀬川と合し江戸川を分流。下流は茨城・千葉県境をほぼ東流し,鬼怒川,小貝川,霞ヶ浦,北浦,手賀沼などの水を合わせる。上・中流には数段の段丘が発達,特に沼田盆地には広い段丘面がみられる。古くから流路変遷が著しく,江戸以前は古(ふる)利根川が本流,現在の下流は鬼怒川の流路であったが,1654年水田開発,水運,水害防止のために現流路に変更した。水運は江戸への回米運送のため発達,関宿,佐原など多くの河港が栄えた。洪水が多く,特に江戸時代の1742年,1786年,明治の1890年,1910年,近年では1947年のカスリーン台風が大被害をもたらした。1950年利根川水系は利根総合開発特定地域に指定され,洪水調節,灌漑(かんがい),発電,上水道を目的とする藤原ダム,川俣ダム,五十里(いかり)ダム,矢木沢ダム,下久保ダムなど多くの多目的ダムが設けられ,また両総用水や大利根用水(九十九里平野の灌漑,1951年完成)の農業用水路,東京都の上水道用水のための利根導水路(1968年完成)も造られた。

利根川:Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から
関東地方を北西から南東にながれる川。三国山脈の丹後山(標高1809m)付近に源を発し、関東平野の中央部を貫流して、銚子市で太平洋にそそぐ。途中、上流から順に赤谷川・片品川・吾妻(あがつま)川・烏(からす)川・渡良瀬川・鬼怒(きぬ)川・小貝川などが合流する。また、利根川からの分流として古利根川・江戸川があり、いずれも東京湾にそそぐ。かつては坂東(ばんどう)太郎ともよばれた。長さ322km、流域面積は16,840km2。

地形と開発
利根川の上流には峡谷や段丘がみられるが、前橋市付近で関東平野にはいると、流れも緩やかになる。下流には霞ヶ浦や北浦などの水郷地帯がひろがり、水郷筑波国定公園になっている。河口付近では、川幅は約1kmにも達する。

1951年(昭和26)に、国土総合開発法にもとづいて、利根川水系にかかわる群馬・栃木・茨城・埼玉・東京・千葉の1都5県1万7326km2の地域が特定地域に指定された。治山・治水・資源開発を主要な目的とする10年におよぶ大プロジェクトだった。利根川の上流には、藤原・矢木沢・相俣・薗原・下久保などのダムが完成し、河川改修・土地改良・林道建設・造林・砂防などもあわせて実施された。利根川から取水する利根導水路(武蔵水路)や両総用水がひらかれ上水や農工業の用水として利用されている。

歴史と交通
江戸時代の初期には、利根川は現在の古利根川の流路をとっており、東京湾にそそいでいたが、江戸の町を水害からまもるために、人工的に流路を改変して銚子方面に東流させ、さらに千葉県関宿(せきやど)で江戸川として分流し東京湾にそそがせた。しかし、それでも洪水はなくならず、明治期以降も国家による治水事業はつづけられてきた。また、とくに江戸時代には銚子〜関宿〜江戸をむすぶ水上交通の大動脈として活況を呈し、多くの河港がもうけられていたが、明治になって鉄道が敷設されると、舟運はおとろえた。

 

只見川:「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」
福島県西部を流れる川。阿賀野川の支流で,長さ145km。尾瀬沼に発し尾瀬ヶ原の水を集めて北流,山都町で日橋川と合し阿賀野川になる。深雪地帯の山地を流れ,落差が大きく,包蔵水力は日本有数。江戸時代には赤の川とも記され,1640年に銀が発見されたという。近現代には大規模の電源開発が行われた。奥只見ダム,田子倉ダム等多くのダムがある。

只見川:Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から
ただみがわ 福島県西部をながれる川。1級河川。全長137km、流域面積2260km2。福島・群馬県境にある尾瀬沼に源を発し、両県の県境をながれ、喜多方市の西方で阿賀川(阿賀野川の上流部)に合流する。

地形と流路
水源の尾瀬沼は、燧ヶ岳(ひうちがたけ、2356m)の噴火で流出・堆積した溶岩によって形成された、せき止め湖である。湖面の標高は1665m。流出する沼尻川は西流し、高層湿原の尾瀬ヶ原をへて北流し、只見川となる。只見川は深い峡谷の間をながれ、途中に三条ヶ滝、平滑(ひらなめ)の滝をつくる。伊南(いな)川と合流する只見町付近より下流では蛇行し、河岸段丘も形成される。伊南川流域には細長い谷底平野がつくられているが、只見川流域には盆地や平野はほとんどみられない。

開発
只見川流域は全国有数の豪雪地帯で、めだった産業もみられなかったが、豊富な水量が注目され、1950年代にはいり大規模な電源開発がおこなわれた。田子倉ダム、さらに上流部には奥只見ダムが完成し、田子倉発電所と奥只見発電所は建設当時日本1・2の出力をほこった。現在、只見川にはこのほか、滝・本名(ほんな)・上田など7カ所にダムがある。只見川にそって、会津地方と新潟県をむすぶ国道252号とJR只見線がはしっているが、冬季は豪雪のためしばしば不通になる。

観光
最上流部の尾瀬沼・尾瀬ヶ原一帯はミズバショウやニッコウキスゲが群生し、シーズンにはハイカーや登山者でにぎわう。奥只見ダムの銀山湖はイワナの好漁場、紅葉の名所として知られ、観光船も運航している。湖畔のスキー場は5月下旬まで開設されているが、積雪量が多すぎるため1月中旬〜3月中旬は閉鎖される。


奥只見ダム
福島・新潟県境を流れる只見川上流に1960年完成した重力式ダム。堤高157m,堤長480m,貯水池の銀山湖(奥只見湖)は有効貯水量4億5800万m3。最大出力36万kWの奥只見発電所がある。江戸時代銀鉱採掘で栄えた銀山平(新潟県湯之谷村)はほとんど水没した。「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」

 

奥只見ダム

高さ:

157m

堤長:

475m

堤体積:

162m2

発電機:

125,000kw/時×3台(水車発電機)

最大出力:

36万kw/時(1960年に運転を開始)

貯水量:

6億100万m3

湛水面積: 

11.5Km2

資材運搬道路は延長23kmで、うち18km はトンネル。この道路で全資材80万トンを輸送したが、現在は県営奥只見有料道路(奥只見シルバーライン)としてもっぱら観光道路となっている。枝折峠を南へ下って奥只見湖の背水位を石抱と称したが1958年に地名を銀山平と改めた。湖上定期船の発着場の八崎には湖の堰堤があり、工事の中心であったが、現在は観光の中心になっている。ダムによって、銀山御陣屋・須原口宿場跡をはじめとして銀山に関する多くの旧跡や山林生活者の家が水没した。最奥の鷹の巣は湖底の位置にあったが、移動して現在17戸の集落をなす。

「新潟の地名 日本歴史地名大系15 1986年 平凡社 396ページ」

 

銀山平
福島・新潟県境,只見川上流の開拓村。近世初期買石原(かいしばら)に銀山が開かれて一時繁栄したが,のち衰微,明治末から開拓村となり,木地屋,またぎを営んだが,奥只見ダム建設で大半は水没,現在はダム湖の銀山湖を中心とする観光地。
「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」

村域の東、福島県南会津郡檜枝岐村とにまたがる只見側の水源の一つ奥只見湖とその周辺地域で別名奥只見ともいう。低地の大半は湖底に水没した。台倉山・平ヶ岳・中ノ岳・駒ヶ岳などの高峰山麓から流れる恋ノ岐川・中ノ岐川・北ノ又川がほぼ北流してかつては阿賀野川支流の只見川に合流していたが、現在は奥只見湖へ注ぐ。奥只見湖は別名銀山湖ともいう。只見川は、近世には赤の川とも記される。年不詳の上田銀山草創記(星家文書)によると1640年(寛永17年)に折立村源蔵が銀鉱石を発見した場所は「赤の川表上平之川辺」であった。鉱石発見の場所の赤の川は、只見川の上流、恋ノ岐川・中ノ岐川とが合流するあたりとみられる。銀鉱石発見後直ちに会津藩と高田藩との間で銀山の所有などをめぐる国境論争があり、1646年(正保3年)の裁決書(井口家文書)で越後と会津の国境が定められ越後側の勝訴となって只見川を境界とすることが確定された。以来上田銀山の開発が行われて繁栄したが1854年から1860年ごろ廃坑となった。湯之谷郷の村々や会津藩領側の村々の者が只見川での鱒漁や山中での羚羊狩、曲物材の檜採りりなどの山稼を行う場でもあった。銀山平一帯は日本有数の豪雪地帯で、水量も豊富であることから電源開発の着目するところとなり、1953年奥只見電源開発工事として着工。1957年頃一応工事を完了した。
「新潟の地名 日本歴史地名大系15 1986年 平凡社 396ページ」

 

花崗岩 かこうがん Granite Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から
長石と石英を多くふくみ、肉眼でみえる結晶構造と組織をもつ火成岩。石材としては、御影(みかげ)石とよばれる。少量の雲母(黒雲母または白雲母)のほか、ジルコン、燐灰石、磁鉄鉱、チタン鉄鉱、クサビ石など微量の副成分鉱物をともなう。ふつうは白っぽい色か灰色で、黒雲母など黒っぽい鉱物があるために斑点がはいったようにみえる。カリ長石があると、赤色または肌色になる。石英、カリ長石、斜長石の量で分類されている。石英をほとんど、またはまったくふくまないものは花崗岩とは区別される。
花崗岩は、地殻の一部が深い所でとけてできたマグマがゆっくり冷却して結晶化したものと考えられている。とくにゆっくりと冷却されると、ひじょうに粒のあらいペグマタイトとよばれる種類になり、その中には有用な金属や宝石がふくまれていることが多い。花崗岩は、ほかの結晶質岩石とともに、大陸の基盤を形づくっており、また、地表に露出している貫入岩としては、もっとも一般的なものである。
花崗岩は、砂岩、石灰岩、大理石よりも強度が大きいため、切りだすのがむずかしい。高品質のものはきわめて風化しにくく、建築石材として重要である。日本ではカリ長石をふくむような花崗岩の産出は比較的少ないが、斜長石をふくむ花崗岩の仲間は多く産出し、とくに瀬戸内地方では建材や墓石用に切りだされている。石材名の「御影石」は、神戸市東灘区御影で切りだされた花崗岩を、地名にちなんで呼んだのが始まりである。

花崗岩Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から 
長石(正長石または斜長石),石英と,それに黒雲母,白雲母,角セン石など有色鉱物がだいたい10%以下伴った優白質で結晶のあらい完晶質の深成岩。有色鉱物や長石の種類によって種類が分かれる。狭義には正長石が全長石の3分の2以上のもの。3分の2以下のものはアダメロ岩,3分の1以下のものは花コウセン緑岩という。有色鉱物がしま状構造を示すものは花コウ片麻岩。花コウ岩は大きな底盤をなし,広域変成帯に広く分布。かつて変成作用でできたという考えもあった(花コウ岩化作用)。同位体元素の研究からマグマ起源説がとられている。化学成分は流紋岩に類似し,ケイ酸が約70%を占める。直角な3方向に節理が発達し,昇仙峡や寝覚ノ床のような奇勝をつくる。堅牢(けんろう)で美しく土木,建築用石材として多用。

花崗岩が作り出す地形について
はこちらを参照のこと

斑状花崗岩 (porphyeitic granite)
カリ長石あるいは斜長石の大きい斑晶を持つ花崗岩。斑状組織の成因は斑晶形成後のマグマの移動による急冷作用、あるいは同一環境下での初生変質(交代作用)による斑晶形成によって説明される。CGumbel(1888)命名。「新版 地学事典 地学団体研究会編 1996年 平凡社」から

 

石英閃緑岩 (quartz diorite)
アンデシン〜オリゴクレース・石英・角閃石を主成分とする完晶質粗粒の深成岩。少量のカリ長石や黒雲母が存在することもある。カリ長石が増大すると、花崗閃緑岩に移行する。F.Zirkel(1866)命名。
「新版 地学事典 地学団体研究会編 1996年 平凡社」から

岡山県英田郡英田町で採取された石英閃緑岩の写真が兵庫県立「人と自然の博物館」にあります。

 

チングルマ
イワグルマとも。バラ科の常緑小低木。北海道,本州中部以北の高山草原や湿原に群生する。茎は細く,よく分枝して地をはい,密に葉をつける。葉は7〜9個の小葉からなる羽状複葉,上面は深緑色で光沢がある。夏,15cm内外の花茎の頂に径2.5cm内外の白色5弁花を単生。花後に長い羽毛状の白毛のある分果を結ぶ。名は稚児車の転じたものとされる。
「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」

チングルマの写真は伊東宏樹のホームページで見ることができます。伊東氏は山里保護などをされている植物学者のようです。

一方、マイクロソフトのEncarta98ではチングルマの記述は以下のようになっています。そのほかの平ヶ岳の有名な高山植物のミツバノバイカオウレン・オノエランの項目や本文中の記述はありませんでした。この2つはマイペディアにもまったく出てきません。

チングルマ(稚児車) 高山植物として知られるバラ科の低木。この名は稚児車(ちごぐるま)の転訛したもので、熟した果実の形を子供(稚児)があそぶ風車のおもちゃにみたててつけられた。雪原周辺の小石混じりの草原や岩礫(がんれき)地などに群生して、うつくしい「お花畑」をつくる。幹の太さ1cmくらい、高さ10〜20cmの小さな木である。北海道、本州中部以北の雪の多い地方に多く、サハリン、カムチャツカ半島、千島列島、ロシア東部の沿海州にも分布する。葉は根生し、夏は緑になる。奇数羽状複葉(→ 葉の「羽状複葉」)で小葉は5〜11枚つき、表面には光沢がある。秋には赤く紅葉し、うつくしい。長い花柄の先に、ウメに似た直径2〜3cmで白色の5弁花を、1個ずつ上向きに開く。中心部には雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)が多数あり、黄色くみえる。花柱は果実が熟すると長さ3cmほどにのび、白毛を密生して羽毛状になり、風車状に広がる。変種のタテヤマチングルマは、立山連峰から東北地方の高山に多く、花は大きく赤みをおびてうつくしい。本種をダイコンソウ属Geumにふくめる説もある。分類:バラ科チングルマ属。チングルマの学名はSieversia pentapetala。 
Microsoft Encarta 98 Encyclopedia.から

 

オウレン亜科 Subfam. Coptidoideae
染色体は小さく、基本教は9。雌蕊は多数または少数の胚珠をつけ、袋果をつくる。イソキノリソ系のアルカロイドを合む。日本にはオウレン属1属のみ。

オウレン属 Coptis Salisb.
発達した根茎がある多年草。根出葉は根茎の先に数枚つき、3出、羽状3出、または鳥足状の複葉で、葉質は洋紙質でやや硬く、ふつう冬を越す。茎葉は退化してほう苞状になるか、または現われない。根茎の先端は花茎となり、1〜数個の花を総状につける。早春、雪どけの頃に開花する。花は両性、ときに単性。萼片は5−6枚あって、花弁状で、白色または淡黄緑色。花弁は数枚、蜜を分泌し、柄があり、萼片よりも短い。雄蕊は多数。雌蕊は数個〜十数個で、柄があり、輪生する。果実は袋果、洋紙質で、輪状に開出し、内側の上部は孔があいたように開いている。種子は数個、楕円形褐色で光沢がある。約15種が北半球に分布する。根茎はアルカロイドのベルベリソを多量に含んで黄色く(黄連の名はこれによる)、胃腸薬として用いられ、そのために裁培もされている。
  1. ミヅバオウレン Coptis trifolia(L)Salisb.
    高山のやや湿った草原、ハイマツや低木林の下、または亜高山の針葉樹林下、または湿原にもはえる。細長く横にはう根茎で繁殖する。根出葉はやや厚くて光沢があり、3出複葉、小葉はほぽ倒卵形でほとんど無柄、浅い切れ込みと不ぞろいな鋸歯がある。花期は6−8月。花茎は高さ5-10センチで、上郭に小型の苞があり、1個の花を頂生する。花は上向きに開き、径7-10ミリ。警片は5枚で、長楕円形、白色。花弁は黄色で、舷部は浅い杯状である。袋果はほぽ卵形で、長さ3-8センチ、柄は4-7センチ、花柱は約2ミリ、側壁に脈はない。北海道・本州中部以北の高山帯や亜高山帯にはえ、北半球の寒帯〜極寒帯に広く分布する。袋果は輪状に開出し、先端に長い花柱があり、縦脈はない。花茎の上部に線形の苞がある。
  2. パイカオウレン ゴカヨウオウレン Coptis quinquefolia Miq.
    針葉樹林の下や縁によくみられ、根茎は細長くて横にはい、匐枝を出して繁殖する。根出葉はやや厚くて光沢があり、鳥足状複葉で、小葉は5枚、倒卵形、基部はくさぴ状でほとんど柄はなく、3中裂し、鋭い鋸歯がある。早春に花茎を出し、花茎は高さ4-15センチで、上部に小型の苞があり、1個の花を頂生する。花は上向きに聞き、径12-18ミリ、萼片は5枚で、倒卵形、白色、花弁は黄色で舷部は浅い杯状。袋果は長さ6-9ミリ、柄は5-6ミリ、花柱は短く1ミリ以下。側壁に1本の縦脈がある。本州(福島県以南)と四国の湿帯〜亜高山帯に分布する。
  3. ミヅパノバイカオウレン コシジオウレソ Coptis trifoliolata
    バイカオウレソによく似ているが、葉は3枚の小葉よりなる。小葉は倒卵状くさび形で、上半部に鋸歯がある。花期は5-8月。本州(中部地方〜東北地方)の日本海側の高山帯、亜高山帯に分布する。袋果の花柱は短く、側壁に1本の縦脈があり、全体が箱舟のような形を呈している。
    1. ミツバノバイカオウレンの写真は伊東宏樹のホームページで見ることができます。伊東氏は山里保護などをされている植物学者のようです。
  4. オオゴカヨウオウレン Coptis ramosaバイカオウレソに似ているが、匐枝を出さない。全体に大型で、花茎はしぱしば分枝して1-3個の花をつける。花期は3月。屋久島の山地に特産する。
  5. オウレン キクバオウレン Coptis japonica
    針葉樹林の下を好み、スギなどの造林地にもよくはえる。根茎はやや太く、多くのひげ根を出す。根出葉はやや厚くて光沢がある。1回3出複葉で、小葉は卵形、3出〜3出羽状に中裂し、裂片には不ぞろいな鋭い鋸歯か、または欠刻状鋸歯がある。早春に花茎を出し、花茎は花後伸びて、高さ15-40センチになり、分枝してふつう3個の花をつける。茎葉は苞状に退化する。花は横向きに咲き、径約10センチ。萼片は5-6枚で、白色、披針形、花弁は白色ときに帯紫色で、へら形。両性花と雄花とがある。袋果は長さ10-15ミリ、柄は4-10ミリ、短い花柱がある。北海道西南部・本州(日本海側)の主として温帯〜亜寒帯に分布する。雌蕊の柄は果時になると伸ぴ、果実は矢車状に広がる。袋果の先端上部は開いているが、これは裂開したのではなく、花の時から雌蕊のこの部分は合着していない。

「日本の野生植物2 草本 1986年 平凡社」から

 

オノエラン Orchis fauriei Finet
ハクサンチドリ属。花は白色、2-6個つく。距は楕円形で長さ3-4ミリ。唇弁はくさび形。
山地の目当りのよい岩石まじりの草地にはえる。根はこの属の一般的な多肉根と異なり、ひも状。茎は高さ10-5センチで、基部に長楕円形の2葉がある。葉は長さ6-10センチ、幅1.5−4センチ、基部は鞘となる。7-8月、茎頂に2-6個の白色の花を短い総状につける。苞は広披針形、長さ1-2センチ。萼片は長楕円形で、鈍頭、長さ7-10ミリ。側花弁は狭長楕円形、上部にはっきりしない徴小な歯牙があり、長さは萼片と同長。唇弁はくさび形、長さは萼片と同長、やや3裂気味で、基部に黄色のW字形の模様がある。距は太く楕円形、基部が強くくびれ、長さ3-4ミリ。蕊柱は短く、葯室は広い葯隔で左右に離れる。本州中北部ならぴに紀伊半島に分布し、目本の特産種である。和名は尾上蘭で山の上にはえるのでいう。

ハクサンチドリ属 Orchis L.
地生、まれに着生の多年草。根は球状または掌状、ときにやや肥厚するだけのものもある。茎は直立し、少数の葉をつける。葉は線形〜披針形。花はやや中型で、総状花序につく。苞は小さいか、またはやや顕著。萼片は離生で、聞出し、背萼片はときに花弁とともにかぶとを形成する。唇弁は蕊柱といくぶん合着し、ふつう3裂して、距がある。蕊柱は短く、葯室は平行、各室に小尾状体のある花粉塊を1個入れる。北半球の温帯〜亜寒帯に分布して、約100種が知られる。

ハクサンチドリ Orchis aristata
高山の草地にはえる。根は掌状に肥厚するものがある。茎は高さ10-40センチ。葉は3-6個あり、倒披針形・基部は茎を抱き、長さ5−15センチ、幅1−3センチ。花は紅紫色、6-8月に数花または多数花を総状につける。苞は披針形。背萼片は卵状披針形、長さ7-13センチ。側萼片は背萼片と同形で、すこし長い。側花弁は狭卵形、背萼片よりすこし短い。唇弁はくさび形、背萼片よりわずかに長く・内面に細かい突起があり、3裂する。中裂片は鋭尖頭、側裂片は円頭となる。距は長さ1-1.5センチ。蕊柱は短い。葯は楕円形で、葯室は平行する。花粉塊は紫黒色。本州中部以北・北海道、千島・樺太・朝鮮・カムチャツカ・アリューシャソ・アラスカに分布する。葉面に暗紫色の斑点を有するものをウズラバハクサンチドリといい、また白花品もみられる。一般に北方型のものは葉の幅が広くなる。
「日本の野生植物1 草本 1986年 平凡社」から

オノエランの花の咲いた写真は秋田大学第一外科のホームページの中にありました。安藤氏が撮影したようです。また花は咲いていない写真ですが全体の様子が分かります。一関市の自然を大切にする今村詮氏の撮影によるものです。

 

ホソミモリトンボ Somatochlora arctica
雄の上付器は背面かり見ると基半は平行し、先でくぎぬき型となり、側面から見ると中ほどに鈍頭の2歯あり、先はわずかに上反する。雌の生殖弁は黄褐色、腹板に接して第9腹節端近くまでのぴる。高層湿原に発生し、成虫期は7〜9月。体長:52ミリ内外。分布:北海道から長野県山地まで点々と分布。国外では北欧全土・中欧・全シベリア(北はタイミル半島に達す)・カムチャツカ・ウスリー南部・樺太・千島に分布。中欧では高山帯にかぎられ、コーカサスより南に出ないのに、わが国では比較的低緯度まで分布するのは不思議である。(トンボ目エゾトンボ科Corduliidae)
「生物図鑑 昆虫3 1990年改定版 学研」から

ホソミモリトンボの写真は北海道のトンボ図鑑蝦夷乃蜻蛉のホームページにあります。

深田久弥 1903〜1971
小説家,山岳紀行家。石川県生れ。東大哲学科中退。第9〜10次《新思潮》に参加,《文学》同人,小林秀雄らと《文学界》を創刊。《オロッコの娘》(1930年)で好評を得る。北国の風土を背景にカリエスを病む津軽娘を清新な筆致で描いた《あすならう》(1932年)で地歩を築く(のち《津軽の野づら》に収録)。戦前から山岳紀行文を多く書き,ヒマラヤ,シルクロード研究でも知られる。1964年《日本百名山》で読売文学賞受賞。

以上は「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」からで深田久弥と山に関係する情報はほとんど無い。一方同様のCD-ROM百科事典のマイクロソフトのEncarta 98ではそもそも深田久弥の項目が存在しない。唯一本文中に深田久弥の名が出てくるのは34の山の説明文の中ですべて同じ表現で「深田久弥の「日本百名山」のひとつ。」とかかれているだけ。これも100の山がでている訳ではないことに注意。

ちなみに深田久弥が平ヶ岳に登頂したのは1962年の9月で5日間かけている。コースは小出、枝折峠、石抱橋、中ノ岐川、二岐沢、ワラビ採り小屋(一泊)、1887mの三角地点への尾根、尾根の途中でテント泊、池ノ岳、中ノ岐源流、山頂(一泊)、水長沢。
深田久弥が平ヶ岳を選んだ理由を彼の「日本百名山」の中から探してみると次の3点と思われる。

  1. 利根川源流域の最高峰である。ここで2,000mを山は平ヶ岳、至仏山、武尊山しかない。
  2. その独特な山容。長く平らな頂上は甚だ個性的である。遠くから望んでも一と目でわかる。苗場山も平らであるが、少し傾いている。平ヶ岳はほとんど水平である。
  3. どこの山へもワンサと人が押しかける時代にまだろくな登山道もないこと。汽車を降りてから、これほどアプローチの長い山は、ほかにないでしょう。

    深田久弥の日本百名山のCD-ROM(山と渓谷社/NEC)のなかでは平ヶ岳について次の言葉を引用している。
    「苗場山も平らであるが、少し傾いている。平ヶ岳はほとんど水平である。会津駒から、燧から、至仏から、武尊から、この平ら頂上を眺めて、私はいつかはその上に立ちたいと願っていた。しかし、それはあまりにも遅すぎた。」

最後にもう一度、深田久弥の項目を日本で代表的な百科事典で引いてみると次のように出ている。

深田久弥 1903-1971
作家、登山家。石川県大聖寺町(現加賀市)に生まれる。東京帝国大学哲学科在学中の1926年より3年間、改造社に勤務。「津軽の野づら」(1935)連作により文壇に登場。「鎌倉夫人」(1937)「親友」(1943)「知と愛」(1953)などを発表。一方、小学生の時から親しんだ登山に第一高等学校在学中本格的に取り組む。山岳紀行・随想に生来の個性を発揮して優れた随筆紀行を著した。「わが山山」(1934)「山岳展望」(1937)などを刊行。第二次世界大戦後の1958年にはジュガール・ヒマール探査。1966年シルクロード学術調査など内外を旅行し、名山巡礼の山旅を続けるとともに、ヒマラヤ登山の黄金時代と相まってヒマラヤ研究に没頭し、「日本百名山」(1964)は読売文学賞を受賞。「ヒマラヤの高峰」(1964〜1965)は日本人のヒマラヤ登山の必読書になった。1971年山形県の茅ヶ岳の登山中に脳出血で急死。ヒマラヤ関係の蔵書は国立国会図書館に移蔵された。日本大百科全書 第二版 1995 小学館
世界大百科事典 平凡社 

高頭仁兵衛 たかとうにへい 1877-1958
登山家。新潟県深沢村生まれ。本名式(しょく)。東京で漢文を学び、1898年富士山に登り、志賀重昂の「日本風景論」を読み、登山に意欲を燃やし、1998年富士山を始め、乗鞍岳、槍ヶ岳、木曽御嶽などの明治の登山の黎明期に多くの登山を行った。1905年日本山岳会発足のときには財政面からの強力な支持者となった。第二代日本山岳会会長、名誉会員、新潟県弥彦山には銅像がある。日本最初の山岳百科事典として知られる「日本山嶽志」(1906)を著した。
日本大百科全書 第二版 1995 小学館
世界大百科事典 1988年 平凡社 

両百科事典とも内容はほとんど同じで平凡社の方が年代の記載が出ている位の違いしかない。参考にした原典が同じかどうかわからないがどうしてこんなに同じ内容になるのか?執筆者が同一人物かと考えたが、日本大百科は近藤信行氏、世界百科は徳田球雄氏の記述であった。インターネット上の人名辞典にも若干、高頭仁兵衛について記載がある

越後三山只見国定公園
新潟,福島両県にまたがる国定公園。1973年指定。861.29km2。越後三山(駒ヶ岳,八海(はっかい)山,中ノ岳)と浅草岳,守門(すもん)岳などが連なり,只見川,魚野川,破間(あぶるま)川などがその間を流れて深いV字谷を刻む。平ヶ岳には高層湿原がみられる。
「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」

新潟県の東部、越後の霊山として古くから信仰を集める八海山・中ノ岳・駒ヶ岳のいわゆる越後三山と奥只見湖を中心とする山岳自然公園。指定地域は新潟・福島の両県にまたがる。湖水美・山岳美・渓谷美に恵まれた自然境で、山麓には折立・大湯・栃尾又などの温泉が湧き、奥只見シルバーラインや国道352号線が通じて探勝を容易にしている。
「郷土資料辞典 15 新潟県 1997年 人文社 」

 

日光国立公園
栃木・群馬・福島・新潟4県にまたがる国立公園。1401.64km2。1934年指定,1954年鬼怒川・塩原・那須の3地区を編入。日光地域は日光東照宮など2社1寺のある日光山内と,男体山,中禅寺湖,戦場ヶ原,日光湯元温泉を中心とする奥日光に分かれ,奥日光の西部には尾瀬ヶ原がある。鬼怒川地区は鬼怒川・川治両温泉と五十里(いかり)湖,塩原地区は塩原温泉郷,那須地区は那須岳と那須温泉郷が中心。観光基地は日光市など。
「マイペディア97 1997年 Mac版 日立デジタル平凡社」

栃木・群馬・福島・新潟4県にまたがる山岳自然公園。新潟県内では湯之谷村の南端、国の特別天然記念物地域になっている尾瀬ヶ原の一部、12.21km2が指定地域に含まれるれ、尾瀬の水を落として只見川とする、高さ100m近い三条の滝の豪壮な景観が見もの。また湯之谷村から福島県側の檜枝岐村へ抜ける国道325号線沿いの小沢平を基点に、渋沢温泉・温泉小屋(いずれも福島県檜枝岐村)を経て尾瀬へ登る山道が開かれている。
「郷土資料辞典 15 新潟県 1997年 人文社 」

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